二上山に鎮まる神にして、
天照大御神の御名代として地上に降臨された天孫
祭神名
二上神ふたがみのかみ[瓊瓊杵尊ににぎのみこと]
霊山・二上山に鎮まる 越中を守護する豊穣・みちひらきの神
射水神社はもともと、霊山である二上山そのものを祀る社であったと考えられています。古記録に、当社のご祭神は「二上神」と記されており、神仏混淆(しんぶつこんこう)が主流だった江戸時代までは、「二上山大権現(ふたがみやまだいごんげん)」として人々に崇敬されてきました。その後、明治時代には政府による神仏分離令を受け、二上神は瓊瓊杵尊として祀られるようになりました。
瓊瓊杵尊は、有名な「天孫降臨」(てんそんこうりん)神話の主人公で、神代の昔、祖母の天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御名代(ごみょうだい)として葦原中国(あしはらのなかつくに)に降臨された天津神(あまつかみ)です。
天孫降臨の際、天照大御神は「八咫鏡」(やたのかがみ)、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)の三種の神器に加え、高天原(たかまのはら)の稲穂を授けて地上で育てるよう事寄せられました。すなわち、射水神社のご祭神は豊穣・みちひらきの神様であり、ご神紋(しんもん)が「御鏡に稲穂」なのはこの神話伝承に基づいています。
ご神徳
- 五穀豊穣
- 商業繁栄
- 家内安全
- 縁結び
- 開運厄祓
- みちひらき
稲穂を地上にもたらされた瓊瓊杵尊は農業神として崇敬されており、豊かな実りは商業繁栄はもとより全ての産業の発展に通じるご神徳です。縁結びは、天孫降臨に随伴された神々の一柱である天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と猿田毘古神(さるたひこのかみ)を、瓊瓊杵尊が娶(めあ)わせた神話に由来しています。
越中総鎮守一宮として その威容を誇る古社
越中国は古くから名の知られた神社が鎮座されるなかで、当社は神社の戸籍帳とも云われる『延喜式』神名帳(出雲本)において国内唯一の名神大社、また加賀国一宮の白山比咩神社に伝わる『白山之記』(国指定重要文化財)では「越中一宮」と記されています。
「射水(いみず)」という社名は平安時代初期の『国造本紀』に記された「伊弥頭(いみづ)国造」に由来するとされ、平安時代より前から当地の豪族を中心に信仰されていたことが推察されます。
創祀は太古で、当初は現在の鎮座地から5kmほど北の大伴家持卿由来の名勝・二上山の山麓に鎮座され、祭祀が行われていました。当時の領域は、二上荘67ヵ村、二上神を二上権現として祀った別当寺を含めた社寺は二上全山に亘り22万余坪に達したといわれ、越中国全土の各戸より毎年「初穂米一升二合」奉納の制度があり、隆盛を極めました。以後、戦国期に戦災で社殿を焼失したこともありますが、皇室や武将の尊崇も篤く、江戸時代には加賀藩の祈祷所になるなど、越中国一宮としての格式を保持してきました。
当社はこの地で千年超を過ごし、明治4年(1871)に越中最高位の「国幣中社」に列格、その4年後、高岡城跡(国指定史跡[平成27年4月指定])の「高岡古城公園」へ遷座されました。江戸時代の城跡に社殿を構える一宮は全国で当社のみです。
初代加賀藩主・前田利長公ゆかりの高岡古城公園は、富山県高岡市の中心に位置し、四季折々の表情が豊かな約21万㎡という広大な公園の中央、本丸跡に神社は鎮座しています。
現在の神明造の社殿は明治35年(1902)造営。その2年前に起きた高岡大火からの再建で、建築界で初めて文化勲章を受けた伊東忠太氏が設計を、加賀藩の御用を勤めて松井建設を設立した松井組の松井角平氏が施工を担当しました。
また、昭和4年(1929)の昭和天皇即位の礼・大嘗祭にあたって下附された鳥居が拝殿前に建造されており、平成27年秋に行われた10年に1度の式年大祭に合わせて伊勢の神宮から鳥居が特別に譲与され、同年4月5日には県下一円の崇敬者により、ご用材の奉曳行事が行われました。本鳥居(第一鳥居)の建立によって、社頭に往時の姿が蘇りました。